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- 【コラム】「人と組織とキャリアを考える」 第3回 創業者と企業のDNA
私は人事の構造改革を行うときに、何をどう変えるべきかを自問自答しました。その時に行き着いたのが創業者の盛田昭夫氏の言葉でした。
それは、「ソニーのカルチャーは日本のカルチャーであってはならない。世界中のよいところを併せて作り上げてきた。また、本質は変えてはならないものであり、変えるべきところと変えてはならないところをはっきり認識しないと、革新という美名のもとに大事な本質が失われることがある。わが社は常に先駆者であり、日本の世界企業のあり方は、ソニーが作らなければならないと思っている」という言葉です。
これがまさにソニーの普遍の創業の精神であり、今のソニーの状況をみたとき、変えてはならないところをかえてしまったのではないかと心配です。私も構造改革の方針を検討するときに、「個人の思いで変えてはいけない部分は何なのか」と真剣に考えました。
その部分を間違えると改革は改悪になります。本質を変えてしまったら、企業の持ち味は失われます。
ソニーは1946年に設立され、約20人の人員で資本金16万円からスタートしました。創設者である井深大氏が書いた設立趣意書に、「自由闊達にて愉快なる理想工場の建設、徒に規模の大なるを追わず、形式主義を排し実力本位・人格主義、個人の能力を最大限に発揮せしむ」とあります。
私は今から40年近く前に入社してこれを教わり、勤務している間このスピリットが、会社の中に120パーセント、常に感じられました。そして、自由闊達な社風の中で、若い人が最大限に力を発揮することができました。
社員は新卒採用が半分で、残りの半分は経験者採用でしたが、他社から来た人が半年経つとソニースピリットに染まっている。そういう精神を示したのが井深氏の設立趣意書で、これがまさにソニーの魂であると思います。
井深氏、盛田氏の創立者としての経営コンセプトは、グローバルローカライゼーション、ダイバシフィケーション、3つのクリエーション(テクノロジー、商品、マーケティング)だと教わりました。
盛田会長は、まだ戦後20年程しか経たないときにニューヨークの五番街に移り住み、いわゆる東部のエリートと交流をしてアメリカの心臓部にくいこんでいきました。当時、副社長として赴任をして3年で五番街にショールームを作り、日章旗をかかげてアメリカにおけるローカライゼーションを実現していきました。
またエクセレント・コミュニケーターとしてアメリカ人と交流し、ソニーをアメリカ人から愛される会社にしていきました。
イノベーションについても、単に技術のイノベーションだけでなく、商品とマーケティングのイノベーションに取り組みました。録音機能がなく再生機能しかないウォークマンを創ったとき、誰ひとりこんなものが売れるとは思いませんでした。
それが売れたのは、外を歩きながら音楽を聞くというニューマーケットを創ったからです。マーケットをクリエイトする。それが、マーケットイノベーションであり、そういう考え方でソニーを「世界のソニー」にしていきました。
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その後を引きついだのが大賀典雄氏で、東京芸大を一番で卒業しベルリンの音楽大学に留学をした俊才です。特にプロダクトデザインに力を入れ、ソニーの商品は何か違うと思われるような心の琴線にふれる商品を創りました。
「ソフトとハードは車の両輪」という経営戦略を打ち出し、映画や音楽事業を買収しましたが、これが今のビジネスモデルの難しさの淵源になりました。
そして90年代に入ってデジタル化やネットワーク化が起こり、次のソニーを託せる人は誰かと言うことになりました。後継者として出井社長が引き継ぐことになりました。出井社長はリアルとサイバーの融合ということで、ネットワークにハードウエアを組み合わせる戦略を考えました。
これに対するビジネス界の評価については、最初の5年はベストCEOに選ばれましたが、残りの5年間はそれを維持することができず、評価はドラスティックに変遷しました。
そして次に、今年CEOを退任したハワードストリンガー氏に後を託しましたが、それによってソニーのDNAが変わってしまったのではないかと危惧されます。
それまでソニーはエレクトロニクス産業だったのが、彼の時にエンターテイメント事業に重点がシフトしてしまったように思えます。それで利益を創出できるのであれば問題はありませんが、現実はそうなっていません。
経営戦略を様々に語ることは可能ですが、経営は理屈ではなく結果責任であることを考えると、この間に行われたた経営戦略の変化が正しかったのかどうか、改めて検証されなければなりません。
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ソニーは、創業当初から世界初の商品を次々と世に出し、新たなライフスタイルを創っていきました。それがイノベーターとしてのDNAでした。
日本一世界一を目指すパイオニア精神、それがソニースピリットで、それに惹かれて人が集まる。なぜ入社したか聞くと、他社よりソニーの方がおもしろいからと答える。一風変わった"とんがった"人材が、世界中からソニーのDNAに魅かれて入ってくる。
創業者の井深氏は、「人真似をするな、他人がやらないことをやれ。他人がやっているのを真似して売るのは恥である。イノベーターでなくてはならない。それがソニーの魂である」といつも話されていました。
盛田会長のマーケットイノベーション論によって、高品質によるブランドを確立するという戦略が成功し、スペースシャトルやアポロ宇宙船に搭載されるカメラやテープレコーダは全部ソニー製でした。宇宙にいってもトラブルがおこらない品質、それがまさにソニーブランドの象徴でした。
付加価値の高い製品のため、2割くらい高い価格でも売れる。それによって高収益の会社をつくることができました。日本よりもまずアメリカにいって、そこからブーメランのように日本にもどり、ヨーロッパ、中近東、全世界に広がっていきました。日本の景気が悪くても、世界のどこかが景気がよいとカバーでき、グローバルな経営を行うことで経営の安定化が図れました。
大賀社長の時代になり、心の琴線に触れる商品開発の時代を迎えました。彼は芸術的なセンスがあるので、発売される商品は、すべて発表前に商品を見てダメ出しをしていました。
当時のソニーの主力商品はテレビで、ソニー独自のトリントロンピクチャーという方式で開発し、鮮明な高画質画像を実現しました。さらにフラット化もいち早く達成し、差異化で他社に差を付けました。この時代にベガというピクチャーチューブで、圧倒的なシェアを獲得し、ソニーはテレビ受像機において世界のナンバーワンになりました。
この時代にCBSレコードとコロンビアピクシャーズを買収して、ソフトとハードが車の両輪という事業コンセプトを打ち出しました。
盛田会長には、当時アメリカで手に入れたいものが2つありました。保険会社と映画会社です。これを大賀社長に託して、2人でプルデンシャルとコロンビア・ピクチャーズと交渉をして、ソニープルデンシャルとCBSソニーという合弁会社を各々設立し、後日いずれの会社も100パーセント子会社化しました。
ここでいうソフトというのは、エンターテイメントコンテンツです。なぜそれが大事だと考えたかというと、ソニーがベータマックスを開発した時、技術的にはとても優れた商品でしたが、映画会社がVHSフォーマットを採用したためにフォーマット競争に負けたことの影響です。
それが悔しくて、映画会社を買ってフォーマットを牛耳ろうという戦略をたて、それを実現したのが大賀社長でした。
しかし結論から言うと、それがソニーにとって未だに解のない大きな課題となりました。それは、今なぜソニーがアップルに負けているのか考えてみると分かります。
アップルはコンテンツを何1つもっていないが、そのプラットフォームにみんながコンテンツを載せ、お金を払っています。ネットワーク時代に大量生産できないコンテンツを持つことの重要性は確かにありますが、私は、ソニーが目指すソフトはコンテンツだけではなくて、むしろ本命はコンピュータ・ネットワーク技術ではなかったのではないかと考えています。
ハードとコンピュータ・ネットワーク技術の組み合わせが21世紀を牛耳る車の両輪であったのではないかと思います。そこのボタンの掛け違いが、20数年経ってボディブローのようきいてきているのではないでしょうか。