経営・人事コラム

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「ジャイロ経営」の薦め (6)

[2008.07.30] 秋元 征紘 (ワイ・エイ・パートナーズ株式会社 代表取締役)

第6回 先達の実践から学ぶ
(1):カーネル・サンダース/KFC
     ・・・人は感情的な動物、理屈のみでは動かない

戦略的経営計画との出会い

1979年NSKを辞め参画した、自然甘味料ステビアの精製技術によるベンチャーは、通産省主導のベンチャー支援のプログラムに採用され、青森県百石町の産業団地にその精製工場を建設すべく準備中であったが、結果的には地元銀行の理解と支援が得られぬまま、たった10ヶ月で失敗してしまったのです。

当時、創立から10年で売上げ約300億円前後、外食産業の中で急成長を開始していた日本ケンタッキー・フライドチキン(株)(日本KFC)の大河原毅副社長は、この失敗の事実を快く受け入れ、私を新規事業担当部長として採用してくれました。その後大河原氏は1984年に社長に就任、1990年に日本KFCは東証二部上場となりますが、私は14年間を、世界のKFCファミリーの一員として過ごすことになりました。

全く異業種のKFCにおけるビジネス体験は多岐に及び、日米間の合弁企業の経営、80年代に急成長した日本の外食産業に於けるリテーリング営業のオペレーション、ブランドマーティング戦略の立案と実施、フランチャイズビジネスのマネージメント、新規業態の開発、情報システムといった体験は、その後の私の人生に画期的な変化をもたらすこととなりました。その中でも、最も重要な体験の一つが「戦略的経営計画」(Strategic Plan)との出会いでした。

当時の日本KFCは三菱商事と米国ケンタッキー・フライドチキン社(KFC社)との50%・50%出資の合弁会社として1970年に設立されました。しかし米国側の株主は、その後のM&Aの結果、1972年ヒューブライン、1982年R.J.レイノルズ、1983年R.J.Rナビスコ、 1986年ペプシコと変遷を重ね、主に企画・マーケティング関係の仕事をしていた私は、アメリカ側株主のトップマネージメントに向けての、「戦略的経営計画」の準備とプレゼンテーションを多数経験することになりました。

このような過程で、当時のヒュ?ブライン社長ヒックス・ウォルドレン氏(後のエイボン社長、会長)、KFCインターナショナル社長マイク・マイルズ氏(後のフィリップ・モリス社長、会長)、ナビスコ社長ロス・ジョンソン氏、ペプシコ会長ドン・ケンドール氏、ペプシ・コーラ社長ロジャー・エンリコ氏 (後のペプシコ会長)といった、当時の米国を代表する経営者に直接、プレゼンテーション・討議・交渉するという機会を得たのです。

日本KFCは、大河原社長の強力なリーダーシップによる「和魂洋才」経営が効を奏し、その後十数年の間、毎年2桁の増収増益を達成し、1990年に東証二部に上場を果たしました。日本上陸の1970年からの数年間はその存続さえ危ぶまれた、ケンタッキー州コービン生まれの、カーネル小父さんで有名なファーストフードのブランドは、1992年にグループ売上げ1,432億円を達成するとともに、最高株価は11,300円に到達し、その日本における成功のピークを迎えました。当時ニューヨークのPBCが「カーネルが日本にやってくる」(「Colonel comes to Japan」)という、日本KFCの成功物語についてのテレビ・ドキュメンタリーを制作してエミー賞を獲得しました。この番組は北米で何度も放映されましたが、その内容は、その後、ハーバード・ビジネス・スクールをはじめ、多くのMBAコースのケーススタディとして使われることとなったのです。

1986年から約2年間は、同じグループの日本ペプシ・コーラに副社長として出向しました。コーラ戦争におけるコカ・コーラ社との広告・PR合戦、マイケル・ジャクソンの「ビクトリーツアー」の日本公演における陣頭指揮の経験は、同社の戦略的経営の手法とともに、今でも鮮明な記憶として残っています。特に当時のペプシは若き戦略的エリート集団であり、驚くべきことに、世界の主だった市場のジェネラルマネージャーやマーケティングディレクターは、半分以上の時間とエネルギーを戦略的計画書の作成と、そのプレゼンテーションの準備に費やしていたのです。オペレーション・現場重視の日本KFCと全く正反対の企業文化の中で、私は営業・マーケティング・戦略計画の担当副社長として多くを学ぶ事が出来たと思います。

ペプシにおける本格的な戦略計画の体験の後、1988年、日本KFCに常務取締役として
復帰し、東証上場準備もあったため、日本KFCの戦略計画担当も体験しました。またその前後に、KFCのハワイ・韓国・台湾・フィリピン・グアム・サイパンへの事業展開の責任者を、そして更には当時ペプシコグループ内にあったピザハット事業のリポジショニングにも参画する事になりました。データベースマーケティング、今でいう個店単位のCRMによるピザハットのホームデリバリー事業は、その後日本KFCの第2の柱として発展する事となります。私は、その後 1991年日本KFCの営業統括担当常務として全国1,050店の直営・フランチャイズ店の責任者になり、グループ売上はそのピークを迎えることになったのです。


KFC中興の祖、マイク・マイルズとQSCVOOFAMP:

KFCの基本メニューである11種の秘伝のスパイスで有名なオリジナル・レシピは、1890年生まれのカーネル・サンダース氏が1939年に完成させました。その後1955年に、KFCは、最初のフランチャイジーとなったピート・ハーマン氏の協力のもと創業しました。その後KFC社は、創業時の弁護士ジョン・ワイ・ブラウンに引き継がれ、1972年にヒューブラインに買収された後、1982年R.J.レイノルズ、1983年R.J.R.ナビスコ、 1986年ペプシコ、と株主の変遷を重ねる事になります。

1983年、日本KFCのマーケティング本部長になった私に、大きな影響を与えた体験は、KFC社のマイク・マイルズ社長が、QSCVOOFAMP (Quality, Service, Cleanliness,? Values, Other Operating Factors, Advertising, Merchandising and Promotion) という長い頭文字の並んだ新造語に要約される、ブランド再興の計画を展開したことです。

1960?70年代には「米国において、最も多くの百万長者を生んだ」といわれ、隆盛を極めたKFCも、80年代に入り、世界的に肥大したフランチャイズシステムの中で、その創業の原点を忘れ、方向性を見失いかけていたのです。マイルズ氏は、創業以来のフランチャイジーや消費者の間ではなお絶大なる人気を誇っていた、80歳台後半のカーネル・サンダースをKFCブランドの中核に呼びもどすとともに、全世界の社員・フランチャイジーの志気を鼓舞し、ブランドの再興を果たしました。マイルズ氏は、この成功から、全米のヘッドハンターの間で「最も求められるCEO」(the most wanted CEO)と呼ばれ、後にクラフト社のCEOとなり、さらには同社を買収したフィリップ・モリス社のCEOになったのです。

当時のファーストフードでは、QSCVすなわちQuality(提供製品の品質)、Service(店舗スタッフのフレンドリーで行き届いたサービス)、Cleanliness(清潔な店舗)、Values(価格に見合った価値の提供)を他社店舗の水準以上に保つことが、店舗網の拡大戦略による急成長と激しい価格競争の中で、最善の競合対策と考えられていました。マイルズ氏が加えたのはOther Operating Factors(店舗イメージ・設備・POS等の要素)、Advertising(広告・広報・宣伝)、Merchandising(メニュー構成、マーチャンダイジング)そしてPromotion(販売促進、プロモーション)つまりOOFAMPでした。

QSCVOOFAMPの全ての要素に関して、創業時の原点に立ち返り、改めて競争優位性を築くのが、起死回生をめざすKFCのマーケティング戦略でした。そしてその戦略の理解の徹底と同時に、社員や店舗スタッフやフランチャイジーのみならず、原材料・備品のサプライヤーから広告代理店に至るまで、世界のKFCビジネスを構成する数十万の人々に、その精神を正しく理解し、勝利を確信させる必要があったのです。

カーネル・サンダースと「ピープルズ・ビジネス」:

KFCの創業者カーネル・サンダースは、マイルズ氏の要請を快く引き受け、尊敬をもってKFCブランドの中核に呼びもどされました。カーネルは既に高齢で、体調が優れているわけではなかったのですが、このことを喜んで引き受けたのです。
その後有名になった「先ず原点に戻ってから、新しい事を始めなさい」(Back to basics and start a new.)はこのときの言葉です。

オリジナル・レシピによる調理法は、再度カーネルの発明時の原点に戻り検証され、彼の顔とブランド名のロゴは、広告キャンペーンも含め、全世界で一新されました。

1990年に2回目の来日を果たしたカーネルは、90歳の高齢にも係わらず、日本KFCの社員・フランチャイジー向けのコンベンションに参加しました。カーネルは、背中に日本KFCのモットーである"We are No.1."と印字された赤いジャンパーにストリングタイを着けたたくさんの若い店舗社員との握手を精力的にこなしました。そして私に「このひとつひとつの握手が、我々にドルをもたらすのだ」と囁いたのです。KFCをしばしば「ピープルズ・ビジネス」(People's business)と表現することを好んだカーネルは、「人は感情的な動物で、理屈のみでは動かない」というビジネスの原点を教えてくれました。「もし君達が彼等の面倒を良く見れば、彼等が君達の面倒を見てくれる事になる」とも。

この年の12月16日、世界で約6千店舗のKFCフランチャイズチェーンを、64才からのたった26年の間に作り上げた、アメリカンドリームの体現者で、世界中の子供達を愛し、そして愛され続けたカーネル・ハロルド・サンダースは90歳で永眠されました。

Hard way becomes easier, but easy way becomes harder :

カーネルの残した、このもう一つの格言の意味は、彼自身の言葉でいうと次のようなものでした。

「困難な道...簡単な道のほうが効率的で、早く成功できるかもしれない。
険しい道を進むのは、努力が必要であり道のりも長い。だが、時が進むにつれ、最初簡単だった道はだんだん難しくなり、険しかった道は徐々に容易になってくる。そして、長い年月とともに、簡単な道は砂の上に建てた櫓のように危険が増してくるが、険しい道はしっかりとした自信の上に作りあげられているので、崩されることはない。...こうして我々は造った。」

オリジナル・レシピの完成の2年前、1937年ケンタッキー州コービンでのことでした。

(2):ロジャー・エンリコ/ペプシ・コーラ
    ・・・ビッグアイデア、新結合による創造的破壊

「コーラ戦争に勝った」と「ビッグアイデア」:

『1985年、コカ・コーラ社はアメリカそのものと言われた原液の調合を変更した。
そして3ヶ月後、消費者の批難の嵐の中で、従来のものを再び市場に戻した。ビジネス史上に残るこの誤算は、ペプシが執拗に繰り拡げた挑戦がもたらしたと言われる。本書は、No.2のペプシがいかにしてNo.1 になったか、消費者の心の掴み方、社員のやる気の引き出し方を、ペプシ社長が詳細に明かすものである。』

以上は、R.エンリコ/J.コーンブルース著、常盤新平訳、1987年新潮文庫版『コーラ戦争に勝った!ペプシ社長が明かすマーケティングのすべて』(The Other Guy Blinked, How PEPSI won the cola war.)のバックカバーのコピーです。

1986年秋、R.J.R.ナビスコ社の子会社であったKFC社は、清涼飲料に加え、フリトレイを中心としたスナック部門と、ピザハットとタコベルで構成される外食部門を有していたペプシコ社に買収されました。実はこの時、オーストラリア留学時代の友人の紹介で、日本ペプシ・コーラの副社長のオファーが在りました。しかし、ペプシ・コーラは、コカ・コーラの34%という圧倒的な市場占有率に対し、2-3%のシェアーでNo.2にも届かず、過去に何社かのボトラーを倒産させており、困難が明らかに予想されるこの仕事は断る予定でいました。

しかし、まさにその時にペプシコによるKFC社の買収が発表され、新たなKFC社の株主として来日した、ペプシコ社のドン・ケンドール会長やウェイン・キャロウェイ社長兼CEOに、三菱商事の役員室での直接の説得されることになってしまったのです。そして私は、ロジャー・エンリコ社長以下の首脳陣との面接の為に、ニューヨークの北ホワイトプレーンのペプシコ本社を訪れることになりました。この旅の間に偶然目に触れたのがこの『The Other Guy Blinked.』(英語版)だったのです。

KFCにおけるマーケティングの経験の後という事もあり、日本ペプシ・コーラへ副社長として出向した私は、この本の内容もさることながら、戦略エリート集団であるペプシ・コーラによる戦略的なビジネス展開と、「ビッグアイデア」による革新的で創造的なアイデアを戦略に結実させる能力を有する、同世代のエンリコ社長のカリスマ的経営手法に、単純に感動することになりました。  

「新しい世代の選択」(Choice of new generation)の戦略は、マーケティング史上多くの議論を呼んだ、比較広告としての「ペプシの挑戦」(Pepsi Challenge)の延長線上にありました。このキャンペーンは、当時、人気絶頂期にあったマイケル・ジャクソンを500万ドルの制作費を費やしてテレビ・コマーシャルに起用、さらにその撮影中にマイケルが火傷をおうという事件があり大変な話題となりました。さらに「ビリー・ジーン」、「スリラー」といったヒット曲や、従来には存在しなかった劇的な印象とそして優れた音響効果と視覚効果を可能にする巨大な構築物としてのステージ、超一流のバックコーラス、ダンサーとバンド、そしてあのマイケルしか出来ない「ムーン・ウォーク」とダンスと歌、音楽で構成された「ビクトリーツアー」と銘打った全米コンサートツアーは全米の若者を魅了させ、大ブレークしたのです。

この「ビッグアイデア」に支えられて、コカ・コーラが「ニューコークの大失態」を演じている間に、ペプシの「新しい世代の選択」のキャンペーンは、より強烈なメッセージとして全世界の消費者・社員・ボトラー・ルート営業員・サプライヤーにペプシのイメージを強く印象付け、関係した人々の気持ちを一つのものにし、一般消費者を巻き込む形で大成功を遂げました。こうしてペプシは米国コーラ市場のシェアーでコークを抜き「アメリカ市場におけるコーラ戦争」に勝利したのです。

日本市場におけるコーラ戦争:

そしてアメリカでのビクトリーツアーの大成功後1年近くもの間、更に数百万ドルの制作費が投入されたにもかかわらず、完璧主義ゆえにマイケル・ジャクソンがそのリリースを拒んでいたテレビ・コマーシャルの放映と、「ザ・バッド」(The Bad)のLPレコードと当時の新メディアのCDの販売が世界市場に先駆け、日本での14回にわたるコンサートツアーとほぼ同時に開始される運びとなったのです。

翻訳の段階から協力してきた出版社との綿密な打ち合わせと、発売3ヶ月前に来日したロジャー・エンリコと常盤新平氏の記者会見を経て、常盤新平訳『コーラ戦争に勝った!ペプシ社長が明かすマーケティングのすべて』は発売されました。私のアイデアで、エンリコ社長を説得し、記者会見に合わせて制作されたこの本の中に登場するペプシのテレビ・コマーシャルに日本語字幕をつけたビデオを本とセットにして用意され、あらゆる媒体に計1,500セット配布しました。多くのテレビ局はそれをそのまま放映し、「イレブンPM」といった番組を始め、多くのテレビ番組にしばしば私が登場する事になりました。

マイケルのコンサートの会場となった、ビッグエッグとして改装される前年の後楽園球場、横浜スタジアム、さらに今では無くなってしまった西宮球場では、コカ・コーラとの間で営業スペースや内容について常に小競り合いが起き、スポーツ各紙は「コーラ戦争の勃発」を大きく報道しました。極めつけは、マイケル側の音楽監督を動かし、彼の「舞台芸術上の理由」によるものとして、横浜スタジアムの巨大な特設ステージ後方にあったコカ・コーラのスコアボードのネオンサイン全面を、黒い布製の幕で全て覆ってしまったことです。もちろん、これは各メディアで大きく報道され、かつてKFC時代の仲間であったコカ・コーラ関係者を激怒させました。

この結果、本は28万部ほど売れ、テレビ各局・スポーツ各誌は連日「コーラ戦争」を報道し、ブランドの認知は飛躍的に上昇、ペプシ・コーラの売上は、前年費40%増という記録的売上となったのです。

しかし、同時進行中の、日本における中・長期的なコーラ戦争に勝利するための戦略計画、つまりNo.1になる為の計画は、大半が一流大学のMBA出身者で、マッキンゼーあるいはプロクター&ギャンブルに代表される経営コンサルタントやマス・ブランドのマーケティングディレクター経験者だったため、頭脳明晰ではあるが日本の現状は理解できず、またアイデアの提案力に乏しかった。また実務における成功経験がないため、ただ詭弁を労し功を争うだけで、
甚だ官僚的で政治的なエリート達の傲慢で政治的な思惑の中で頓挫しかけていた。そんな2年目が終わろうとするころ、私は古巣である東証2部の上場の準備を始めていた日本KFCにもどる事になりました。

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